Taimatsuたいまつ

2022.09.27

「たいまつ」を書き始めました

塾内通信「たいまつ」を書き始めました。この頃、「忙しい」ことをいいわけに、読書量も減ってきているし、勉強量も減ってきているし、これでは「バカな年寄り」になってしまいそうなので、「たいまつ」を書き始めることにしました。(「通信」を書くためには読書もしなければいけないし、勉強もしなければいけないため)

もうひとつの理由が、自分の立ち位置を見誤らないためです。

教育と経営というのは相性の悪いものです。私たちは自分たちの「時間」を仕事として提供をし、その対価をいただいています。一方、教育となると時には時間的に制限があっては結果的にうまくいかないところがあります。教育はうまくいったが、経営に失敗したということも十分にあり得るのです。(大手の宣伝広告がなぜ大々的に行われているかお考え下さい) 当塾で働く講師もスタッフにも生活がありますから、「経営の範囲内での教育」をするしかないのです。

それをカバーするために、「教育」の範囲を塾内通信でカバーできないだろうか、という思いもあります。

「教育」といっても、「蒙を啓く」なんてえらそうなことを考えていません、当然ですが。自分がふだん感じていることや、読んだ本をつれづれなるままに書いていくだけです。塾予備校のビジネスモデルの1つに、「生徒保護者を煽って受講を多くする」ということがあります。当塾はそれはしません。受験勉強という時期を人生という時間で捉えて、そこで何を学び、結果から何を学んでいくか、という生涯発達心理学の観点であることも多いかな。その他に、講師の先生の紹介とか。

第1回はこんなことを書きました。「塞翁が馬」の話をした後のことです。

  • これは、受験でも就職でも同じです。第一志望に合格したからバラ色の未来が待っているわけでもなく、滑り止めだったから不幸になるわけでもありません。だれにも、「その先」は分かりません。
    良い結果でも悪い結果でも、どちらでもプラスになる可能性があるのだから、適当にやればいいのか。
    私はそれは違うと思います。確かに、努力してもそれが結果として表れるとは限りませんし、良い結果の先にプラスの未来が待っている約束はありません。しかし、「最後までやりきる」ことは、誰しもができる。学力が高くても、低くても、「最後までやりきる」ことは全員ができることです。
    そして、「最後までやりきった」人たちだけが、その結果を受け入れられるのではないかと私は思います。いい結果でも、思わしくない結果でも、最後までやりきった人だけが、その結果を受け入れることができます。この「最後までやりきる」ということが、受験勉強でいちばん大切なのではないかと思うのですが、皆さんはどう思いますか?

第2回は、千葉大飛び級日本第一号の松尾先生の紹介。宇宙物理学を学んでいた松尾先生が、どうして「生活困窮者支援事業」で働くようになったのか。社会福祉士の資格をとった松尾先生の記事は、自分でいうのも面白いかな。

人生は思い通りにはならないし、報われないことの方が多いし、辛いことも少なくないけど、失敗から学ぶことも多いし、友人がいればそれほど悪いものでもありません。親子関係は数十年も続くものですから、受験で子どもとの関係を悪くしない方がいいというアドバイスもします。保護者世代で、自分たちの保護者の思い通りに生きた人なんて人はいないだろうから、自分たちの子どもの人生も見つめていることの大切さ・苦しさなども話しますし、その苦しさを子どもにも伝えます。(これは他人がするしかないのです)

塾内通信「たいまつ」は、雨の日でも消えない強い炎をもって子どもたちに人生を選んでもらいたいという願いを込めて、むのたけじさんが主筆をしていた「たいまつ」からいただきました。