Chief blog塾長ブログ

2022.07.22

公立学校の先生を応援します

飲みの席でもないのに個人に文句をつけるのも好きではないのですが、あまりにもひどいなぁという書き込みを見つけました。どうして大手予備校(塾にはあまりいない)と呼ばれるところには1人(もしくは極めて少ない数字)の生徒の話を聞き、さも自分が体験してきたように「学校の授業ではこうだ」「学校は○○だ」といえる人が少なからずいるようです。私には理解できません。おそらくはポジショントークなのでしょうが、それにしても学校に不信感を抱かせるようなことをどうしてつぶやくかな。誰も得をすることなんてないのに。

私は学校に対して幻想を持っているわけではありません。承認欲求の強すぎる≒すぐに何かを変えたがる校長もいたし、ベテランでも授業ができない先生もいたし、若手でも勘違いしている先生もいました。(私もそう思われていたかもしれませんが) そんなことを百も承知の上で断言できることは、学校の教育力は高い、ということです。

私は今でも覚えています。コロナが始めて流行したときに、大手予備校はギリギリまで生徒募集をした上で、突然に休校しました。授業料の返金もなかった。少なくとも、そんな組織に比べれば、学校の教育力の方がよっぽど高いし、生徒のことを純粋に考えています、間違いなく。

学校というのは、家庭と市民社会とのトンネルのようなものです。幼稚園や保育園は家庭に近いので、家庭的なケアが多くあり、大学になれば社会に近いので自由さが増していきます。中学や高校は、教科教育だけでなく、特別活動を通じて集団について学ぶ=他者を理解したり、学年に応じた役割について学んだり、進路を通じて生き方を考えたりする場所です。「教科」で生活をしている人には分からないかもしれませんが、皆さんが目の敵にしている部活動の競技で将来に生活する生徒は極めて少ないのと同じように、将来的に「教科」で生活する人はほぼいないんですよ。学校で行われる『教育』とは、先生方が生徒に教えることだけではなく、先生方がサポートして生徒が運営することもあれば、学校の手を離れて生徒同士が身につけていくことだっていくらでもあります。教養=他者に対する思いやりを身につけることが、最も透き通った意味での教育だと私は信じて疑いませんし、それが根底にない教科教育は「サロンの住人」のやりとりに過ぎないという考えは10年以上も前から変わっていません。

子どもは大きくなり、「社会」の中で生きていきます。そこには同質性はなく、多様性があります。高校という場所は入学試験があるので同質性が比較的高い集団でしょうが、公立の小学校中学校では多様性を身につけられます。これは、仕事だけでなく、市民生活を送っていく上で、大きな財産になると思うんですよね。少なくとも私はそう思います。

いま公立学校は、いろいろな仕事を押しつけられたり、いちど始めた仕事を止められなかったり、と『雑用」の多すぎる職場環境になっています。友人に聞くと、私が在職していた頃よりも、よっぽど厳しい状況になっていると聞いています。そして、学校の先生には高度な守秘義務があるので、SNSなどで語れないことも多くあるでしょう。ただ、こうやって応援している元職もいます。